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​「からゆきさんからの伝言」公式ブログ

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  • 執筆者の写真: 継田恵美
    継田恵美
  • 2020年8月14日
  • 読了時間: 1分

父、そして祖父からその後に繋がる洞察力、人や物に対する慈しみ方が教えるともなく引き継がれていたこと。それは、「教育」と名のつかない英才教育そのものの様に思う。 エピソードを幾つか。これは私が忘れないためにここに書いておきたいと思います。


溝の穴からカニが出てくる。ヨモギの葉をもんでそれを糸にくくって穴の入口にさげているとカニが出てきてハサミではさむ。釣りあげて遊んでいた時のこと。

祖父は「釣る事には賛成」だけれども「カニをいじめるなよ。夜、耳を挟みに来るぞ。」という。そのカニのハサミをもぎ取ると、「ハサミはカニの手じゃけぇ。手がないと物が食えん。ハサミはもぐなよ。」と戒める。「カニと遊んだらまた元へ戻してやれ。遊んでくれんようになるけぇのう。」と。そして常一少年はカニと友達になった。


行間を読む、ページとページから繰り出されるのは、古き良き日本、古き良き家族の風景。 こうして脈々と受け継がれた感性は、宮本常一の仕事に見事に反映されているように思う。 人、モノと接するとき、話を聞く姿勢。そういう教科書にならないものを宮本常一の姿勢から感じている。 続けて、彼の書いたものや、膨大な数に上ったという写真を愛でてみたい。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 継田恵美
    継田恵美
  • 2020年8月8日
  • 読了時間: 1分

東京都知事が「いつもと違う夏」と表現しておられましたが、コロナ禍、2020年の夏を皆様いかがお過ごしでしょうか。 私は、取材で録音した音源を聞きながら、文字起こしをしたり、資料本と史実を付け合わせたりして過ごしています。 あの頃はまだ、取材で地方に伺うことができたのに!という思いがにじみます。 そして、本当ならお目に掛かって追加でお話を聞きたいところだったり、写真を撮りたい気持ちに捕らわれながら、データを見直したり聞いています。 「あぁ、あの時はこんなだったなー。」と思い出したりする作業に感傷的になります。 ご縁を頂いた皆様、お変わりないでしょうか。皆様のご健勝をひたすら祈ります。

そして、次にまた取材に行けるのはいつになることなのか。

期待を込めて、年が明けたら!と想像してみますが、どうなることでしょうか。 天候不順な日もありますことから、皆様、暑さに負けずお健やかにお過ごしください。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 継田恵美
    継田恵美
  • 2020年5月12日
  • 読了時間: 3分


古書店で、西川満「シンガポール女傑譚」を購入した。100部限定で昭和52年に人間の星社という出版会社より出ている。手作り感のある本で、紙質はわら半紙の様。

読んで居て既視感があるのはなぜだろうかと思ったのだけれど、それは色々なエピソードがないまぜになっているからだ途中から気づく。密航の話、娼館に売られ行く際の描写、また

カイロに行く展開など。

それもそのはず、我が師である大場昇先生も書いた「長野登米子」と彼女の辿った人生が小説化されているからだ。

「長野登米子」は、明治23年(1890年)女衒にかどわかされ上海に売り飛ばされてしまう。英国人のウィルキンソン氏に見初められエジプトのカイロに渡る。そこでウィルキンソン氏は、小柄で愛らしい登米子を「My Small Cat」と呼んだと言う。

その後、あろうことか競馬で金をすったウィルキンソン氏は、登米子を担保に金を借りようとする・・・。登米子は寸でのところで売られる直前逃げ出すのだ。

この様に話は展開するのだが、「シンガポール女傑譚」に登場する主人公の名前は「フミエ」だ。しかも天草出身で、隠れキリシタンをあぶり出そうとする悪名高き「踏み絵」に引っ掛けて・・・というので、そこはどうなんだろう?!と。

仮名にしてあり、その他の固有名詞についてはぼかしてる。

ご愛敬という感じがしてしまったのは、率直なところで、どうしてこの一冊が生まれたのか

という興味が湧いた。

ちなみに、驚くことに登米子は梅屋庄吉と一時期を共にしている。シンガポールで写真館を開いていたという。これがシンガポールにおける日本人写真館の第一号だと言われている。

*「戦前シンガポールの日本人社会」という本の中に、「梅屋庄吉の妻が開業」とある!

中略 色々あって二人は別れ、登米子は台湾で後の夫となる長野賽義と出会い、二人はシンガポールに向かいリトル東京とも言われるハイストリートにて「大和商会」を興す。

登米子は、店を大きくする手伝いに奔走し、あろうことか一攫千金を狙い単身ゴールドラッシュに沸くオーストラリアに渡り金探しをする。しかし飲み水が尽き砂漠に倒れ落命寸前のところを助けられた。このエピソードは戦前の南洋研究の基礎文献にも綴られ、当時の在留邦人には知られた話だと言うので、本当に「女傑」と言わざるを得ない。

シンガポールに戻り夫長野賽義と共に「大和商会」を盛り立てた。登米子の国際力が物を言った。しかし「長野登米子」は大正4年8月2日に僅か52歳で波乱の生涯を閉じる。

シンガポール日本人会の有志により顕彰碑が建てられた。二葉亭四迷の後継者と目された長田秋涛は著書「図南録」で親友長野賽義の死を悲しんでいる。

二人の墓は、シンガポール日本人墓地にある。

登米子の写真は、一枚たりと残っていない。写真館の仕事をしていたと言うのに・・・。

#からゆきさん #シンガポール




 
 
 

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