
からゆきさんからの伝言① 「私たちの真の姿を知って欲しい。」
「からゆきさん」というと、何をイメージされますか?異国人相手の売春婦だと思いますか?
女衒らの手に掛かり騙されて、また誘拐され、船底に押し込まれて、強引に海外へ売り飛ばされた薄幸の少女達を
思い浮かべるでしょうか。
ベストセラーとなった、山崎朋子さんの「サンダカン八番娼館」また森崎和江さんの「からゆきさん」に取り上げ
られたのは、確かに異国人相手の売春婦たちの苦難に満ちた半生でした。しかし、その他の資料や書籍をあまねく
見て行くと、からゆきさんが決して異国人相手の売春婦だけではなかったことが分かります。
例えば北野典夫氏著「天草海外発展史」その他を読めば、海外に出稼ぎに行った人は女性だけではないこと。
また職業も多岐に亘っており、移民者として未開の地で奮闘する様子、成功者として故郷に錦を飾り、
郷土の為にいかんなく、協力を惜しまなかった姿が生き生きと描かれています。
つまり、からゆきさん=売春婦としてしまうと、男性もいたし、様々な職業に従事していたことから、
説明がつかなくなってしまうのです。
その頃、日本はまだ貧しく、凶作や不漁が続くと食べ物にも窮し、また地域に働く場を探すのも大変でした。
窮余の策として親が子を売ることができた時代でした。「奉公」に出ることで、口減らしにもなった時代です。
自分さえ我慢すれば!という気概の中、厳しい家計や、家族を助ける為に、海を渡った人。
助けて欲しい!と親に乞われて身を任せた人。純粋に稼ぎたい…など、色々なケースがあったと思います。
親きょうだい、妻子を恋い、故郷を懐かしく思っても、今とは違い、容易に連絡する手段もありませんでした。
働き始め、しばらくして郷里に送金があれば、それが消息を知らせる手立でした。
また、からゆきさん、からゆきどんが海を渡ったのは、明治から昭和の初期です。
当時まだ売春は合法という時代であり日本全国で、全世界で政府も公認して行われていたのです。
全員と言うことでは決してありませんが、海を渡った女性の中には、確かに売春をした方も多く居ました。
「海外に良い勤め先があるよ。」と甘言に騙され、身に覚えのない渡航費などの借金を背負わされ、
言葉も通じない、知る人も居ない異国で、泣く泣くその勤めについた人も居たことでしょう。
家や家族を助ける為という、やむやまれぬ事情があってのこととは言え、
もし純朴な日本娘さんがある日を境に異国人相手の娼婦とならざるを得なかったとしたら…
そこには想像を絶する過酷な日々が続いたことでしょう。
異国人相手に身を売ることで「醜業」と切り捨てられたからゆきさん達。
しかし、日本が海外進出をする中、先遣隊としての出稼ぎ者は既に当地で根を張り後続隊の足掛かりになりました。
また日清日露戦争において、海外から多額の献金があったことも忘れてはなりません。
懸命に生きた、彼ら彼女達。生まれ故郷とは違う気候風土の中で、ある者は病に。また過酷な仕事で命を落とし、
二度と郷里で親兄弟に会う事なく、多くのからゆきさん、からゆきどんが、今も世界中の日本人墓地で永遠の眠りに
ついています。
「からゆきさん」「からゆきどん」は、勇敢にも100年近く前の時代に、海を渡った出稼ぎ者・労働者です。
からゆきさんを「売春」ということだけに着目してしまうと、全体像や背景を見渡すことができなくなってしまいます。
外国を「唐」「天竺」と総称して呼んで居た時代。外国に行くことを「唐行き」と言ったことからついた呼び名です。
その数は、20万人とも30万人とも言われますが、正確な実数はわかりません。それほど多くの人が渡航しました。
今と違い、長い船旅で、やっとの思いで渡航先に辿りつけば、そこは見たことも無い知り人も居ない言葉も通じぬ異国
でした。彼らは不安な中、様々な仕事に従事し苦労の末、やっと手にした稼ぎを遠い故郷に送金し、家族を支え国を
潤した功労者なのです。
そんな「からゆきさん達」を、異国人相手の娼婦だと、一言で語るのは、あまりにも極端ではないでしょうか。
「お父さん、お母さん、兄弟姉妹たちに、会いたい。」「郷里の妻子たちは、今、どうしているだろう。」
「兄弟姉妹たちは、自分が行けなかった学校に通わせたい。」
病気やケガで倒れても、まともな治療すら難しい、言葉の通じない国。
帰りたくても帰れない遠い遠い故郷、日本。どんな思いで、月を、そして海原を見つめたことでしょう。
『その時代を懸命に生きた、私達の真の姿を知って下さい。』
『私達がどうして海を渡らざるを得なかったか。その背景を正しく知って下さい。』
そして…どうか、どうか、私たちのことを忘れないでいて下さい。
心の耳を澄ますと、からゆきさんからの伝言がかすかに聞こえてきませんか?